「アストロ球団」とはどんな漫画だったのか
アストロ球団とは
アストロ球団と運命の超人
昭和19年秋、太平洋戦争の真っ只中。
フィリピンのレイテ島の日本軍の中に、伝説の投手沢村栄治がいた。
沢村は翌日の出撃を前に自分の死を覚悟し、現地で仲良くなった原住民のシュウロ少年に自分の見た未来の夢について話す。
その夢とは
自分の魂を継いだ若者たちが新生球団を作り、野球でアメリカに勝つ!
そして沢村栄治の戦死から10年後の昭和29年9月9日午後9時9分9秒、日本の夜空に不思議な9つの発光体が飛んだ。
これこそ沢村栄治の魂であり、その魂は運命の時間に生まれたきた赤ん坊の体内に宿った。
沢村栄治の生まれ変わりともいうべき、運命に選ばれた9人の野球超人たちの誕生だった。
そして超人たちはその証として体のどこかにボール型のアザを持っている。
その9人を集めて新生球団を作り、野球でアメリカに勝つという沢村栄治の夢を実現するのがアストロ球団である。
新連載開始が巻頭カラーじゃなかった件
読売巨人への忖度で巻頭カラーにならなかった説
アストロ球団の連載が始まったのは昭和47年(1972年)の秋。
この頃にはすでに巨人の優勝8連覇が決まっていましたが、物語の中ではまだ47年の春でペナントレースが始まったところです。
当時の子どもたちが一番なりたかった職業といえば野球選手で、そのプロ野球では圧倒的に巨人に人気が集中していました。
そして当時流行っていたスポコン漫画でも野球をテーマにした作品が多く、当然その主役となるチームは巨人だったわけです。
同時期にジャンプでは侍ジャイアンツという巨人がバリバリの主役の漫画が連載されていました。
そこへもう一つ野球漫画をスタートさせるわけですが、それがこのアストロ球団でした。
今ジャンプでは新連載が始まる第1話では、必ずご祝儀として表紙と巻頭カラーを飾ります。
しかしこのアストロ球団は表紙にならず、ジャンプの真ん中あたりでひっそり(?)と連載が開始されたのです。
ネットでアストロ球団を検索すると
「当時ジャンプでは侍ジャイアンツを連載していたため、巨人を敵扱いする漫画を連載するにあたり忖度が働いて巻頭カラーじゃなかった」
なんてことがまことしやかに書かれていますが
ウソです
そんなことで忖度しないとダメな漫画なら最初から連載なんかできません。
しかも後々の展開で、実は巨人は最強の敵どころか、せこくて卑怯な球団のように描かれていきます。
今ならまちがいなく読売から抗議されるような内容ですが、
それでも漫画の内容なんかでクレーム入れてたら
クレーム入れる方が頭おかしいと言われたのが昭和なのです
読売に許してもらうために巻頭カラーにしなかったなんて、そんなことは絶対あり得ません。
最後までアストロ球団の連載が続いたのは、こんなひどい内容でも巨人は抗議せず大人の対応をしてくれたからなのです。
付け加えると、中島先生は1975年の愛読者賞で「ルーキー悪太郎」という、これまた巨人が姑息な敵としての漫画を描かれています。
中島先生ってよく「野球はルールもよく知らなかった」とかおっしゃってましたが、本当はアンチ巨人ファンじゃなかったのかなと思っています。
巻頭カラーじゃなかった本当の理由
結論から言うと当時は新連載だからといって必ずしも巻頭カラーじゃなかったのです。
昭和47年(1972年)39号の目次を見るとベテラン川崎のぼる先生の荒野の少年イサムが一番に掲載されていますね。
私の記憶が間違ってなかったら、この週のイサムは巻頭ではありますがカラーではなかった気がします。
今でこそ新連載の第1話は御祝儀的な意味で巻頭カラーが決まりみたいになってますが、当時はそこまで確定事項ではなかったのです。
巻頭カラーは人気漫画、看板漫画の指定席。
実績のあるベテラン漫画家ならともかく、ヒットするかどうかわからない新人の新連載に巻頭カラーなんか描かせてもらえませんでした。
あのど根性ガエルもトイレット博士もこち亀も、新連載第1話は巻頭カラーじゃなかったですよ。
しかもアストロ球団なんか
これもう見るからに10週で打ち切られそうじゃないですか
事実、連載開始してアストロ球団はすぐに巻末の方が指定席になってましたし。
アストロ球団がはじめて巻頭カラーになったのはロッテ編の終盤、連載開始から2年経ったころでした。
全体のあらすじ
アストロ球団の連載期間は昭和47年から51年までの約4年間。
当時としてはど根性ガエル、トイレット博士に次ぐ、長期連載の漫画だった。
その長期連載にも関わらず、野球の試合らしい試合は実質3試合しか行われなかった。
今でもアストロ球団で検索すると「試合 長い」と表示されることがある。
とにかく!とにかく1試合が長かった……
試合に入る前段階で
風呂敷を広げすぎて畳むのに苦労した(伏線張りすぎて回収するのに尺が、尺がーーーー)
のが原因だった。
当サイトでは大きく5つの章に分類した。
超人出現編(10週)
運命の野球超人・アストロ超人の初期メンバー5人が現れ、プロ野球界に旋風を巻き起こす。
まず主人公であるピッチャーの宇野球児があらわれ、巨人阪神戦に乱入して巨人の王・長嶋と対決し手玉にとる。
つづいてキャッチャー上野球太が大洋(現ベイスターズ)対ヤクルトの試合に乱入後、アストロ入り。
巨人次期監督の長嶋が密かに育てていた新人、三荻野球一がアストロ入り。
阪急に入団した明智兄弟(球七郎、球八)の日本シリーズで超人守備と対決し、アストロ入り。
ここまでで連載期間はちょうど10週目で、しかも巻末掲載。
いわゆる10週打ち切りだったらこの漫画もここまでだった。
(※正確には1972年39号から49号、ここまでで11週です)
ふくしゅう球団編(約3ヶ月)
新生球団はアストロだけでなかった。
打倒巨人のためのブラック球団、通称ふくしゅう球団も動き出す。
アストロとふくしゅう球団との対決編。
この試合に備え、球一は新魔球三段ドロップをマスター。
そしてアストロに6番目の超人伊集院球三郎が加入。
ふくしゅう球団には殺人X打法の7番目の超人カミソリの竜と、殺人L字投法の謎の投手無七志がいた。
初代・上野球二が殺人L字投法で死亡するも、二代目・上野球二が現れる。
試合は12対0でアストロの勝利。
試合期間は前振り含めて全体で約3ヶ月。(試合自体は8週)
ロッテ編(約1年)
日本での最初の相手は前年日本一8連覇(昭和47年)の巨人と息巻いていたが、金やん(金田正一)の挑発に乗ってロッテが初戦の相手になる。
ロッテは現役バリバリのメジャーリーガー、モンスタージョーを招聘。
さらにアストロ超人候補、10番目の打者ことリョウ坂本。
球一は三段ドロップを破られるが、試合中に新魔球スカイラブ投法を開発した。
延長線に入って、負傷した球一に代わって7番目の超人カミソリの竜が代打で登場。
アストロのサヨナラ勝利となる。
連載期間は前振り含めて約1年。
ビクトリー球団編(約2年)
8番目の超人、峠球四郎が結成した野球以外のスポーツアスリートを集めた球団。
ビクトリー球団は最初は野球の試合に勝つことではなく、目的はアストロ抹殺のデスマッチ野球だった。
しかし途中で路線を変更し、野球勝負へ。
ビクトリー側にはデスマッチ野球で、球三郎の兄である伊集院大門。
特攻隊の生き残り、氏家慎次郎投手
途中参加のバロン森。
ビクトリー側の野球ルールを完全に無視した人間ナイアガラという必殺技がすごすぎて、球一の新魔球ファントム大魔球、球四郎のファイナル大魔球などがあったが、魔球勝負ではイマイチ影が薄かった。
最後の超人、日野球九郎が現れるも試合には参加せず。
最後は押し出しのフォアボールでアストロ勝利。
連載期間は前振り含めて約2年。
最終章
ビクトリー戦終了後、わずか3週で最終回。
野球ではとうていアストロには敵わないと思った巨人は、その政治力で世界中の野球リーグにアストロ球団を不認可とする条約が締結されてしまう。
アストロ超人は9人揃ったが、これによってアストロ球団は日本はもちろん、世界中の野球リーグで試合ができないことになってしまった。
アストロ球団は巨人の政治力の及ばないアフリカで野球をすることに決めて旅立っていったのである。
アストロ年表(リアルタイムバージョン)
アストロ球団が「1つの試合が長いマンガ」と呼ばれているのは、たしかにロッテ戦が1年、ビクトリー戦が2年もかかったからです。
現在と違い、当時の週刊連載のストーリー漫画は、一つのエピソードをだいたい4週ぐらいで終わらせていました。
つまり野球漫画なら1試合を1ヶ月ぐらいで終わらせるのが普通だったのです。
そういう意味でもアストロ球団はたしかに1試合が長かった。
しかし現代では一つのエピソードを2年3年引っ張るのは普通になってきています。
なのに今なおアストロ球団が「1つの試合が長い野球マンガ」という印象を持たれている理由は何か?
私はこれは 現実と作中の時間のズレが原因 だと思っています。
実際のジャンプ発売の時期 | 作中の日時とアストロ超人たちの年齢 | 試合 |
---|---|---|
昭和47年9月 | 昭和47年4月(高三、17歳) | 巨人vs阪神戦、開幕(連載開始) |
昭和47年12月 | 昭和47年10月21日(高三、18歳) | 日本シリーズ巨人対阪急 |
昭和48年1月〜3月 | 昭和47年12月 | ブラック球団戦 |
昭和48年4月 | 昭和48年2月10日 | 宮崎キャンプにて川上対無七志対決 |
昭和48年5月 | 昭和48年3月9日 | アストロ球場完成 |
昭和48年6月〜昭和49年5月(約1年) | 昭和48年3月11日(高校卒業前後) | ロッテ戦(オープン戦) |
昭和49年5月〜10月(約半年) | 昭和48年春から初夏まで | ビクトリー戦、前振り |
昭和49年10月〜昭和51年6月(2年弱) | 昭和48年7月21日 | ビクトリー戦 |
昭和51年7月 | 昭和48年9月9日(19歳誕生日) | アストロ球団結成(最終回) |
ロッテ戦が始まる頃は3ヶ月遅れで、現実よりマンガ内が少し遅れてるぐらいでちょうどよかった。
しかしロッテ戦の試合が終わる頃には、そのズレは1年以上に開いていた。
連載をリアルタイムで読んでいた頃「これはまずい」と思った。
これは急がないとアストロ球団が結成する昭和48年9月9日どんどんズレていってしまう!
「いったい何を心配してるんだよ、50年前のオレw」と思うが、わりとガチで心配していた。
しかし原作の遠崎史朗先生は、悠長に半年ぐらい時間をかけてビクトリー戦の布石と伏線を貼り始めた。
もうだめだと思って開き直ったのか、ビクトリー戦は全部合わせて2年以上かかってしまった。
最終的には3年近い時間がずれてしまったことになる。
アストロ年表(劇中バージョン)
日時 | アストロ超人年齢 | 出来事 |
---|---|---|
昭和19年秋 | 沢村栄治投手戦死。Jシュウロ少年(見たところ10歳前後)、沢村の遺志を継ぐ。 | |
昭和29年09月09日 | 日本のどこかでアストロ超人9人が同日同時刻に誕生。 | |
昭和44年秋 | 中学3年生 | 伊集院大門、弟・球三郎との伝承者争いを避けるため自ら身を引き、鹿児島の実家を出て上京。 |
昭和45年12月 | 高校1年-16歳 | 王貞治選手、能登において無七志(高校1年16歳)と会い、殺人L字投法で危うく殺されかける。 |
昭和47年03月? | 高校2年-17歳 | シュウロ、9人の超人を探し求めて来日。京王プラザホテルに滞在。 |
昭和47年04月? | 高校3年-17歳 | 宇野球児(のちの球一)、後楽園球場の巨人阪神戦に乱入。王貞治を三振、長嶋茂雄選手に挑戦状を叩きつける。 |
昭和47年06~07月 | 大門、東京から徒歩で鹿児島の実家に戻り、父・千岩を殺害、総帥の座を強奪。球三郎は伊集院家を追われて失踪。 | |
昭和47年08月 | 多摩川べりで球児と長嶋の対決。シュウロが乱入、新生球団結成と全球界制覇の野望を明かす。球児が9人の超人の一人だということが明らかになる。 また、上野球太(のちの初代球二)がこの会話を盗み聞きし、金欲しさに超人になりすまして新生球団への入団をひそかに画策。 | |
昭和47年08月 | 球児とシュウロが邂逅・結託して4日後。球太、神宮球場外野席でホームランを捕手まで打ち返すというパフォーマンスで球児をおびき寄せ、新生球団加入を果たす。 | |
昭和47年08月 | 球太加入の翌日。シュウロ、房総半島にて長嶋の秘蔵っ子・三荻野球一(のちの球五)を発見、長嶋に双方の超人の身柄を賭けた試合を申し込む(試合は翌日)。 | |
昭和47年08月 | シュウロは長嶋との知略戦に勝利、三荻野球一は約束通り新生球団に加入する。 この直後、明智球七郎(のちの球七)・球八兄弟が出現するも、新生球団への加入を拒絶。 | |
昭和47年08月 | 阪急西本監督、明智兄弟を獲得していたことを発表。この事態を受け、シュウロは偵察のため単身大阪ヘ向かう。 | |
昭和47年09月20日? | 高校3年-18歳 | シュウロ、明智兄弟の能力の秘密を手に入れ、京王プラザホテルに帰還。打倒明智兄弟の特訓のため、全員、黒部ダムへ向かう。 |
昭和47年10月08日 | 黒部ダムでの特訓で、球一がジャコビニ流星打法を開眼。 | |
昭和47年10月21日 | 巨人阪急の日本シリーズ第1戦において、球児ら3名、巨人の選手に変装して入れ替わり、明智兄弟の守備を撃破。 負けを認めた明智兄弟は新生球団へ加入。 ここに現れたシュウロはアストロ球団発足の宣言と選手の紹介・改名、及び巨人への宣戦布告を大観衆の前で行う。 | |
昭和47年11月11日 | いつのまにかカーレーサーになっていた球三郎、レース中の事故で重体、失明。 | |
昭和47年11月12日 | 日本全国に散って残りの超人を探す球一らはブラック球団と接触。また、通称チビスケ(のちの二代目球二)と知り合う。 | |
昭和47年12月09日 | 重体の球三郎、死亡するもシュウロに高度からの落下ショックを受け蘇生。また、シュウロはその場に居合わせたブラック球団に3日後に決着をつけると言い放つ。 | |
昭和47年12月10日 | 阿蘇にて、球一、特訓の末に三段ドロップを習得。 | |
昭和47年12月12日 | 平和台球場にてブラック球団との試合。球二が無七志の殺人L字投法の直撃を受け絶命。 同時に、通称チビスケがアストロ超人として覚醒、二代目・上野球二の名を襲名。 試合はアストロの勝利に終わり、カミソリの竜もアストロ超人だと発覚するがアストロ入団を拒否。ブラック球団とも離反し、流浪の旅に出る。 また、この日、沖縄において知念が日本球界挑戦を決意。 | |
昭和48年02月10日 | 巨人川上監督、無七志獲得を賭けて無七志と勝負。これに勝利し、無七志とこの場に乱入した知念を巨人に引き入れる。アストロ球場完成。 | |
昭和48年03月09日 | アストロ球場開場式。シュウロ、峠会長に己の未熟さを指摘され、球一に指揮権を預けて行方をくらませる。モンスタージョー来日。 | |
昭和48年03月10日 | 球一、ロッテ金田監督の挑発にまんまと乗ってしまい、ロッテに試合(オープン戦)を申し込む。 | |
昭和48年03月12日 | ロッテとのオープン戦。強力助っ人外人モンスタージョーとリョウ坂本両選手を擁するロッテに苦戦するも、アストロに緊急加入したカミソリの竜(のちの球六)の助力もあり、なんとか勝利。試合後、坂本の生年月日がアストロ超人と同じと発覚。 また、試合中に8人目の超人・峠球四郎が乱入するが入団を断固拒否して立ち去る。 なお同日、日光で特訓中だった無七志が新魔球を思いつき、同日数十分後に完成。 | |
昭和48年03月15日 | 高校卒業-18歳 | 都内の某ホテルにおいてアストロ抹殺会議が極秘のうちに開かれる。球四郎もこの会議に参加、必要経費10億円(現在の価値でおよそ100億円)を要求してアストロ抹殺に動き出す。 |
昭和48年03月 | 球四郎、鹿児島で球三郎の兄伊集院大門を訪問。自らの陣営に引き入れる。 | |
昭和48年03月 | 富士山のふもとの球四郎の秘密特訓場にて球一、球四郎と再会。対立は不可避のものとなる。 | |
昭和48年04月下旬 | 高卒1年目-18歳 | 後楽園での巨人阪神戦で、リリーフに立った無七志、田淵に新魔球を披露。 この試合後、球四郎率いるビクトリー球団が乱入。続いて乱入したアストロがビクトリーの挑戦を受ける。 |
昭和48年05月 | 6月まで三原山にてアストロ超人大特訓開始(球五はアストロ球場、球六は鹿児島で特訓)。 | |
昭和48年06月下旬? | 球三郎、明智兄弟はそれぞれの特訓のため三原山から離脱。残る球一球二は新魔球開発の特訓を続ける。 | |
昭和48年07月20日? | 刑務所を出所した氏家慎次郎、ビクトリー球団に合流、ビクトリーの戦力が完全に揃う。 | |
昭和48年07月23日 | オールスターの日にアストロ球場にてビクトリーとの試合。 両軍負傷者続出で、ビクトリー球団のダイナマイト拳が再起不能、氏家が廃人化、大門とバロン森が死亡した。 アストロが勝利し、球四郎は巨人との約束どおり巨人入りを決意。 なお、9回に最後の超人・火野球九郎登場。 試合には参加させてもらえず。 | |
昭和48年08月 | 京王プラザホテルにて読売グループ主導でのアストロ球団抹殺条項が成立する。この卑怯なやり方に怒る無七志と知念は巨人を離反、球四郎も同じく巨人入団を反故にする。 球四郎はその足で球九郎と共にアストロ球場に向かい、アストロに入団。 これにより9人のアストロ超人が揃った。 シュウロと超人9名は戦う場と相手を求めてアフリカへ旅立つ。 | |
昭和48年9月9日 | 19歳 | アストロ球団結成 |
昭和51年11月上旬? | 22歳 | 久々に日本に帰ってきたアストロ球団、後楽園球場にてドラゴンマグナム(リョウ坂本)率いるミラクルボンバーズに苦戦する巨人を助けに現れる。 |